北京遺跡観光
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愛新覚羅(あいしんかくら)氏
満洲(中国東北部)に存在した建州女真族(満洲民族)の姓氏で、
中国を統一し清朝を打ち立てた家系。清の国姓である。
大清帝国君主宗系の子孫に会って来ますた。
(上の帝系図参照)
下二段目の左二人目に記載されている方です。
中国では有名人で書画を購入すると(恐れ多くも)写真を一緒に撮ってくれます。
この写真を拡大して私の事務所に飾る事と、私のHPに掲載する事の承諾を得ました。
通訳を介して話をしましたが、何故か私は感激して涙が出てきました。
私も様と同じ満州で生まれたからか? ・・・謝謝!
ニイハオ
平成24年3月末に中国の世界遺産(六ヶ所)観光に行って来ました。
(飛行機は北京経由ドバイ往きのエティハド航空でした)
万里の長城・明の十三陵・鳥の巣・水位方・天安門広場・人民大会堂・故宮博物院
天壇公園・前門大街・・・・その他色々な「ビックリシタアル」所を観光しました。
中国の世界遺産は「倭国に文化を伝えたアル」と言うだけ有って、流石に素晴らしかったが・・・
映画「ラストエンペラー」で、溥儀が即位した、故宮博物院の太和殿が特別に素晴しかった。
まぁ〜 うんと昔の皇帝が統治してる頃は、名実共に「大国」だったと、私は認めるが・・・
現在の支那(共産党一党独裁政権)は、覇権政策や一人っ子政策の弊害で、将来は危ないと思う。
(予定は未定)
その内、暇が出来たら色々な写真(デジカメ・携帯)を整理して掲載(コメント共)しようと考えてます。
爺の私ですから、いつに成る事やら・・・ orz
ツワイチェン!
それまで、この写真だけ掲載汁アル!
北京にある日本の代表的衣料ブランドの「ユニクロ」 中国共産党一党独裁政権の怖い「おまわりさん」
H24年9月17日(月) 上海のユニクロが「釣魚島(日本名・尖閣諸島)は中国の領土」だってよ。
いくら反日デモ(暴動)を回避する為とはいえ、この売国企業め、恥を知れ!
不管K猫白猫,捉到老鼠就是好猫 By:ケ小平
もし、支那が現在のK猫白猫論の論調方式で近代化(民度がUP)が進むとすると・・・
近い内に政治的にも経済的にも、自由を求める国民の不満や怒りが共産党一党独裁政権に向かい
民族紛争や天安門事件(第三次)が勃発し(ソ連がロシアに成ったように)分裂崩壊すると思われる・・・ (-。-) †~~~
このDJコラムは、たらればでつ・・・
天安門事件 (第一次) 1976年4月5日
故周恩来首相を追悼する民衆が人民英雄記念碑に捧げた花輪を当局が
撤去したことに抗議し、天安門広場で起こった民衆騒乱事件。
天安門事件 (第二次) 1989年6月4日
民主化の要求を掲げる、学生・労働者・一般市民に占拠された天安門広場を
奪回する為に戒厳軍が出動して多数の死傷者を出した事件。
ちょっち中国の歴史話しるある!
辛亥革命(しんがい かくめい) by : Wikipedia
1911年(宣統3年)から1912年(民国元年)にかけて、中国で発生した革命である。
名称は、革命が勃発した1911年の干支である辛亥に因む。
清朝が打倒されて古代より続いた君主制が廃止され、共和制国家である中華民国が樹立された。
勃発日の10月10日に因んで、「双十革命」「ダブル・テン(Double Ten)」とも称される。
また民国革命のなかで辛亥革命は第一革命とされ、袁世凱に鎮圧された第二革命、さらには護国戦争が第三革命として続く。
無産階級文化大革命
(プロレタリア文化大革命)
毛沢東は策士でした。
女性紅衛兵
胸いっぱいの情熱、愚かで無知、愚直な忠誠心を持って・・・ orz
文化大革命
1965年から約10年間にわたり、中国全土を大混乱に巻き込んだ思想・政治闘争。
社会主義を資本主義に変質させようとする修正主義と常に戦わねばならないという、
毛沢東の階級闘争理論が基礎となっているが、
実際は、大躍進政策に失敗し、国家主席を辞任することとなった毛沢東が、
自らの復権と絶対的権威の確立を目指し、開始したとされる。
毛沢東は林彪とむすび、学生を近衛兵として組織、「実権派」批判を展開させた。
その後、中国共産党の後押しを得て、運動は全国に広がる。
近衛兵による伝統文化の破壊、知識人や官僚に対する弾圧は熾烈を極め、
激烈な権力闘争に発展し、多数の犠牲者を生み出した。
結果的に約1,000万人以上と言われる大量虐殺と、
それに伴う内戦へと発展、
国内は長期間にわたる混乱に陥った。
1976年には天安門事件が起こり、翌年文革の終結が宣言された。
その後、文革は、正式に中国共産党によって「動乱の10年」とされ、その意義を否定された。
中国共産党は正式に「その意義を否定した」のでは・・・はて?
↓
文革の意義を否定したのに、中国共産党は毛沢東に敬礼汁アル
ここで、中国人の「歴史認識」の考査を汁!
反日プロパガンダにトドメを刺すために 日中歴史の真実 (-。-) †~~~
中国人にとって「歴史」とは何か(1)
東京外国語大学名誉教授 岡田英弘
別冊正論 H19年11月発売
「どうせ政府の宣伝さ」という彼らの本心を見抜け
かつて中華人民共和国主席であった江沢民が日本にやって来て、
例の尊大な調子で「日本人は歴史を鑑とせよ」とのたまったことがある。
これは一九九八年十月の宮中豊明殿での公式の宴会の場の発言だったが、
その結果、日本人の激しい反感を招き、このあと日本人の中国熱がさめて、中国嫌いが一般的になった。
ところで、
では、中国人にとって歴史とはどんなものであるのかというと、これがなかなか難しい問題である。
というのは、中国人とはだれのことであるか、日本人は意外に思うかもしれないが、じつは定義がいっこうに明確ではないからである。
日本人は、外国人と比較してはじめて自分が日本人であることがわかる、というものではなく、
自分が日本人であることを、ごく自然なことと思っている。
日本国籍を持っているから、というようなことをあらためて意識することもなく、
同じ日本列島に住むまわりの人間と、歴史を共有していることも当然と考えている。
日本人は、だれでもふつうに同じ日本人なのである。
ところが中国人は、じつに多種多様である。
五十五の少数民族と漢族、という分類はご存じだろうが、その十二億いる漢族のなかも、
ひとさまざま、ひとりひとりがみな別々で、他人のことを「同じ中国人だ」と考えて連帯する、というような考えはない。
それは一つには「中国語」というものが、二十世紀になるまでどこにもなかったからである。
さらに言うなら、そんなものが必要だとは、だれも思っていなかったからでもある。
このことは、日本人やアメリカ人やヨーロッパ人には極めてわかりにくいが、
本当のことであり、また、中国を理解するための鍵でもある。
二十世紀になるまで、なぜ中国語がなかったのか、ということを理解するために、中国の誕生から話をはじめようと思う。
「中国」という名称自体、じつは二十世紀に誕生したものだが、いまわれわれが考える、
中国の起源といえる国家が誕生したのは、紀元前二二一年の秦の始皇帝の統一のときだった。
秦という王朝名が「チャイナChina」や「支那」の語源である。
日本のマスコミは、いつも「中国四千年」とか「中国五千年」などというキャッチフレーズを使うが、
実際には中国は二千二百年の歴史しかない。
「中国四千年」や「中国五千年」という言い方は、
二十世紀はじめに誕生した、中国のナショナリズムが産み出したことばである。
一九一一年、最後の中国王朝である清朝を倒そうとする辛亥革命が起こった。
このとき、革命派は「黄帝即位紀元四六〇九年」を名乗ったのであった。
それまで中国では、暦は、天命を受けた天子である皇帝に属するものだった。
革命派にとってみれば、倒そうとする当の相手の清朝皇帝の暦は使えないし、
アヘン戦争以来の憎き敵であるヨーロッパ人の、キリスト生誕にはじまる西暦を使うのも嫌だった。
それで、革命派は、中国最初の歴史書である司馬遷の『史記』に登場する、歴代皇帝の最初の祖先とされる、
神話上の天子である黄帝を持ち出して、中華民族はすべて黄帝の子孫である、としたのである。
これが、「中国五千年」という文句のはじまりだった。
じつは、黄帝即位紀元と中華民族という中国の新しい神話は、
神武天皇以来万世一系の天皇と、天照大神の子孫の大和民族という、
明治維新以来の日本のナショナリズムをまねたものであった。
中国の革命派のほとんどは、一八九四〜九五年の日清戦争に日本が勝利したあと、
日本に留学して近代化を学んだ、もとの清国留学生だったのである。
中国に大変化が起こったのは、西欧の衝撃を受けたせいではなく、すべて日本のせいである。
日清戦争の敗戦の衝撃によって、ようやく清朝は中国文明の伝統を放棄し、日本式の国民国家化に踏み切ったのであった。
清国は、一八九六年から毎年多数の留学生を日本に送り、科挙出身者の代わりに登用するようになった。
一九〇五年には、隋の時代から一千三百年も続いた、国家の上級官僚を採用する科挙の試験を正式に廃止した。
日露戦争に日本が勝利したあと一九〇六年からの日本への清国留学生の数は、年間八千人から九千人にものぼったのである。
清国留学生は、日本の文化を大いに吸収した。
政治形態を改革しようとする人びとも、当初は日本の明治維新にみならって立憲君主制を採用しようと考えていた。
ただし、中国の皇帝は日本の天皇と違って異民族であったために、
最終的には辛亥革命によって一九一二年に清朝は崩壊し、中華民国が生まれたのであった。
しかし、中華民国は、日本と違って、国民国家にはほど遠かった。
なぜなら、モンゴル人やチベット人や新疆のイスラム教徒は言うまでもないが、漢族の間の共通語すらなかったからである。
中華民国教育部は、一九一八年、日本のカタカナをまねた「注音字母(ちゅうおんじぼ)」を公布した。
紀元前二二一年に中国を統一した秦の始皇帝の漢字統一以来、二千百年以上たってはじめて、
漢字にルビをふることができるようになったのである。
この注音字母は、いまでは台湾だけで使用されており、
大陸の中国語のルビは、ローマ字の●音(ピンイン)(●=拓の石が并)を使っている。
つまり、中国人は自国語を覚える前に、あんなに嫌っていた西洋の文字をまず覚えなければならないのである。
話を戻して、明治時代に日本に留学した中国人がもっとも感動したのが、
日本にはひらがなとカタカナがあって、誰でも漢字が学べて、すぐに読めるようになることであった。
じつは大多数の中国人は、いまでも中国語が話せない。
「普通話(プートンホワ)」(共通語)は北京語系のことばで、巻き舌音は北京音にしかなく、
地方の中国人には発音できず、聞き取れない。
毛沢東自身も発音できなかった。
「普通話」は、かつての漢文と同様、地方の中国人にとっては外国語にひとしい。
つまり、いまだに中国全土に通用する「中国語」は存在しないと言える。
漢字を発明した本場の中国では、
二十世紀になるまで、漢字には発音記号がなく、ただの表意文字だった。
なぜだろうか。
中国理解にとっての鍵である、中国人にとっての漢字の歴史について、もう少し詳しく説明していきたい。
秦の始皇帝の統一までは、中原と呼ばれる、いまの中国の中央部分には、
秦・韓・魏・趙・斉・楚・燕の、いわゆる戦国七国があって、それぞれが自分の国のことばを用いており、記録を作っていた。
漢字の字体も違うし、話していたことばもさまざまであった。
統一を果たしたあとの前二一九年、始皇帝は漢字の字体を統一して「篆書(てんしょ)」を創りだした。
有名な「焚書」事件は、そのあとの前二一三年に起こっている。
この年、始皇帝は民間の『詩経』『書経』などを引きあげて焼いたが、宮廷の学者のもち伝えるテキストはそのままとし、
今後、法令を学ぼうという者は吏をもって師となす、すなわち私の学派でなく、公の機関で漢字の使い方を習うことに決めたのである。
これは、それまでのように、特定の先生に弟子入りして、師資相伝で漢字を学ぶのではなく、
漢字という、中国で唯一のコミュニケーション手段を公開したということであった。
ところがこれは、裏返せば、漢字の読み方を秦語にし、秦の方式に統一したということである。
もともと、古代に洛陽盆地を取り巻いていた「東夷・西戎・南蛮・北狄」は違うことばを話しており、
戦国七国でも漢字の字体も読むことばも違っていた。
共通語はまったく存在しなかったのを、始皇帝は強引に漢字の字体を一定にし、
三千三百字だけを選んで読む音も各字一つに決めたのである。
この結果、一つ一つの漢字が意味するところと、それを表す音とが分離して、関係がなくなってしまった。
これを秦以外の国の人から見れば、漢字を外国語で読むのと同じことになった。
もとは各地方で読まれていたそれぞれの音に意味があったはずだが、
こうして漢字の音は、意味を持ったことばではなく、その字の単なるラベルとなった。
しかし漢字の読み方の統一は、時代が必要としたものだったから、そのまま秦から漢へ継承されて、一定の方式になっていった。
それから四百年が経って、後漢の一八四年、黄巾の乱が起こった。
中国全土は混乱の極に達し、人口は五千六百万人あまりから、一挙に四百五十万人以下に転落した。
しかもその少ない人口が、魏・呉・蜀の三国の将軍たちに分割されたのである。
当然、漢字の読み方を伝えた学者も失業し、その知識も風前の灯火となった。
このとき、儒教系の学者たちは、それぞれ師匠から口伝を受けていた発音を整理して、
漢字の音を伝える「反切」と、それを体系化した「韻書」というものをつくりだした。
中国文化の象徴のように言われる儒教であるが、
もう少しで断絶する運命であった、古い時代の漢字の読み方を伝えたことに、その存在価値があるのである。
後漢末に人口の激減した中国に、北方の遊牧民がたくさん移住し、
かれらが、隋・唐時代の新しい中国人となった。
六〇一年、鮮卑(せんぴ)人の陸法言(りくほうげん)は、漢字音を学ぶために、『切韻(せついん)』という韻書をつくったが、
これは六〇七年にはじまった「科挙」の試験の参考書として大流行した。
儒教は、その経典類が科挙の出題範囲に定められたため、宗教としてではなく、
漢字の用例集としての役割を果たし、知識階級の文章の出典となったのである。
しかし、このようにしてつくられた「反切」も「韻書」も、
当時の中国のどこかの方言を反映したものではなく、まったく人工的な音であった。
あくまで文字の世界での出来事であって、ほんとうの中国人のしゃべっている言葉とはなんの関係もなく、
中国人それぞれが独立の言語を話していることには変わりはなかった。
中国は、秦の始皇帝以来、文字だけ、
つまり表面だけの統一を続けて、二十世紀にいたったのである。
現代中国においても、少数民族の言語以外に、中国語とされていることばだけで何十とあるが、
その中で、すべて漢字で書けるのは北京語と広東語の二つしかない。
それ以外は、例えば上海語でも福建語でも客家(ハッカ)語でも、
文献や標準語からの借用語以外のことばは、漢字では書き表せない。
ところで、文語の文章語と、方言の地方語とは、どれぐらい違うものだろうか。
これがわかる資料はひじょうに少なく、始皇帝の統一以後、一千五百年以上もたった
明代(十四〜十七世紀)の作とおぼしい『軒渠録(けんきょろく)』の記録くらいしか見あたらない。
陳東原著『中国婦女生活史』からの引用によって、その一部を紹介しよう。
「一族の叔母さんの陳さんが、ちかごろ厳州(げんしゅう)(浙江(せっこう)省建徳(けんとく)県)に寓居していたが、
息子たちはみな仕官のためにでかけていた。
たまたま一族の甥の大●(だいそう)(●=王の右に宗)が厳州を訪問した。陳叔母さんは、
そこで甥に代筆させて息子あての手紙を書かせることにし、口授(くじゅ)していった。
『孩児劣、●(●=女の右に爾)子又鬩鬩(音吸)霍霍地。且買一把小剪子来、要剪脚上骨。出(上声)児(音胖)胝(音支)児也。』
大●(●=王の右に宗)困って筆を下すことができなかった。叔母さんは笑っていった。 『もともとこの子は字を知らないんだよ』」
中国では、昔は女は漢字が書けなかった。
そこでこの話の女は、男に頼んで手紙を書いてもらうのだが、漢字を知らないから文体も知らない。
それで口語で話すとおりに口授したのだが、これを翻訳せよと言われた男は、さぞ難儀だったろう。
口授の文句は、いまの言語学者ならば、音声文字であるローマ字で書くところだが、
『軒渠録』の著者はローマ字を知るわけがない。
それで文章語の発音に似せてなんとか書くのだが、口授の文句の、
括弧のなかの(音…)とか(…声)とかいうのは口語の発音で、文章語にはそれに当たる漢字がないのである。
ところで、この内容は日本語ではどういう意味か、といえば、それはわからない、としか言いようがない。
中国の読書人にも意味がわからず、翻訳ができないのだから、まして日本人であるわれわれにわかるわけもない。
日清戦争に負けた清朝は、二千年を超える伝統のシステムを放棄して、日本式の近代化に切り替えたが、
このとき、これまで起源の違ったことばどうしの間の仲介役であった文章語も廃棄して、日本語に置き換えた。
そもそも漢文の文章語自体が、どの中国人にとっても外国語だったのだから、この切り替えは簡単だったのである。
やがて日本語の達人の魯迅(ろじん)が現れて、一九一八年、人肉食をテーマとした小説『狂人日記』を発表し、
これがもとになって、日本文を一語一語翻訳した中国文が爆発的に流行することになった。
これが、すなわち「中国語」の誕生であった。
しかし、先に言ったように、いまだに中国全土に通用する「中国語」は存在しない。
「普通話」は、かつての漢文と同様、地方の中国人にとっては外国語にひとしい。
つまり、われわれ日本人が考えるような、同じことばを話す十二億の中国人はいないのである。
ひとつの国民としての中国人は存在しないのだから、国民国家としての中国の歴史もない。
政府によって「中国の歴史」として教えられるものは、じつは、ひとりひとりの中国人にとっては、何のかかわりもないものだ。
だから、「歴史」とはなにかと問われれば、中共政府に教えられたとおりに、
情熱を込めてオウム返しに答えることになるが、腹の中では、その場さえつじつまがあえばいいのだ、と思っている。
中国人は本心では
「どうせ歴史は政府の宣伝さ」と考えていて、まじめに向き合ってなんかいない。
これが中国人にとっての歴史の真相である。
日中歴史の真実 : 反日プロパガンダにトドメを刺す為に (-。-) †~~~
岡田英弘 先生 : 有難う御座いました。
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